『弾き』と『体幹』が生み出したエポックメイキング――Wo Long: Fallen Dynasty

 アクションゲームで面白い瞬間はいつかと問われると、それは勿論『敵を攻撃しているとき』に他ならない。それは単に『敵を倒す』というアクションゲームの目的に近づく行動だからという意味だけではなく、昨今では攻撃動作が華麗なビジュアルやエフェクトに彩られており、攻撃行為自体にプレイヤーが快感を伴うような作りになっているゲームも多いからだ。

 逆につまらない瞬間はいつだろうか、それは『敵が攻撃しているとき』だろう。敵の攻撃に対して回避や防御などの行動をしている時間は、直接的には『敵を倒す』という目的にはつながらない。そのためプレイヤーの感覚的には、その行動をとっている間はゲームの目的に近づいていない無為な時間になるからだ。そのうえ防御や回避を失敗すると敗北に近づくため、それらはプレイヤーの感覚としては『できて当然な行動(=できなければストレス)』 になる。

 また攻撃行動はただ任意のタイミングでボタンを押すだけの簡単な行為である一方、回避や防御行動は『相手の攻撃タイミングやモーションに合わせてボタンを押す』という技術が求められる行為であり、攻撃に比べて難易度が高い行動であることもストレスに繋がりやすい。アクションゲームをやめたくなる瞬間のランキングを作ったとしたなら、一位に挙げられるのは『敵の理不尽な攻撃にやられた時』になるだろう。

 要するにアクションゲームにおいては『攻撃=簡単でゲームクリアに近づく面白い行為』『防御=難しく失敗するとゲームクリアに遠のくつまらない行為』なのだこのアクションゲームの不文律に対して一つの回答を出したのがSKIROの体幹システム*1であり、本作『Wo Long: Fallen Dynasty』はその体幹システムをベースにしたシステムが搭載されたSEKIROフォロワーなアクションゲームだ。

 

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攻防一体の『体幹ゲージ』と『弾き』システム

 防御行動が攻撃行動に繋がるシステムは、何も体幹システムが初出なわけではない。パリィやジャストガード、ジャスト回避など、敵の攻撃に対してちょうどのタイミングで防御行動を行うことでボーナスを得て、次の攻め手を有利にすることができるシステムは、昨今のアクションゲームにおいてよく見るシステムだろう。しかしそれらとの決定的な違いは、それらはアクションの難易度と引き換えに成功すれば追加でボーナスが得られるハイリスクハイリターンな行動であり、それらを行わなくとも通常のガードや回避を行ってもよい選択的行為であることに対し、SEKIROの体幹ゲージを削るために敵の攻撃を弾く行為はボスを倒すためには必須の行為であることにある。

 SEKIROのボス戦ではこちらの攻撃は大抵ガードされてしまい、敵の体力も体幹ゲージもほとんど削れない。ゆえにボスを倒すための基本的な行動が、敵の攻撃をタイミングよく弾くことで体幹ゲージをためて忍殺することになる。つまりSKIROではアクションゲームにおける防御行動がそのまま攻撃行動を兼ねることになり、プレイヤーの行動のすべてが敵を倒す行為に繋がる行動に変換されるため、ボス戦の中でつまらない瞬間が存在しないのだ。それに加え、弾きという難易度の高い行為を成功させた報酬として、火花が散る奇麗なエフェクトと共に気持ちのいいSEが流れるというビジュアル面でも快感を与えて脳を刺激してくれる。

 

 本作『Wo Long』では、『弾き』と『体幹ゲージ』に該当する『化勁(かけい)』と『氣勢(きせい)』のシステムが存在する。該当するとは言ったものの、『氣勢』は『スタミナゲージ』、『化勁』は『パリィ』と言った方が実態には近い。氣勢ゲージは攻撃や回避などの行動をとると消費されるが、攻撃をヒットさせたり化勁を成功させると回復する。敵の攻撃タイミングに合わせて化勁を決めると敵の氣勢ゲージを大きく削り、敵の体制を崩すことでこちらが攻撃する隙を作ることができる。そして敵の氣勢ゲージを最大まで溜めると、敵に強力なダメージを与える『絶脈』を行える。

 システム自体はSEKIROと似ていると言えるが、しかし実態としてはこのゲームのボス戦は化勁ではなく攻撃をして敵の体力を減らすのが基本行動になる。氣勢が実質スタミナゲージとしての役割も持っているため、化勁は『成功させると氣勢が回復して追加で攻撃ができる』という位置づけであり、役割としては『弾き』ではなく『パリィ』なのだ。

 そのため本作はSEKIROのようにずっと『弾き』を求められるような高難易度アクションゲームではない。敵を攻撃→敵の攻撃を化勁で回避→敵を攻撃という、化勁を決めることでずっと攻撃し続けられることが、本作のアクションの本質であり面白さだ。化勁が決まらなくともガードや回避で敵の攻撃を避け、自分の氣勢が回復したらまた攻撃をするという行動もとれるため、化勁をうまく決めることができなくてもボスを倒すことはできるようなシステムになっている。

 

 かと思えば一体だけ、SEKIROのように化勁をずっと決め続けることを求められるボス戦が存在する。呂布(一戦目)だ。

 騎馬状態でも人型状態でも敵が常に動き回るため、こちらの攻撃をなかなか当てることができない。そのため化勁を何度も成功させ、相手の氣勢を一杯にすることで使える絶脈が唯一のダメージ源となる。

 この呂布戦だけはSEKIROで弾きをやっているような感覚で戦えるボス戦になっており、満足度がとても高かった(し倒すのに一番時間がかかった)。

システムの面白さを信じきったレベルデザイン

 SEKIROには経験値でのレベルアップによるステータス上昇のような仕組みが存在しない。そのためボス戦で勝てなくて詰まったときに、雑魚を倒すことでレベルを上げてステータスを強化してから挑むといったことができない。SEKIROでボスを倒すために求められるのは、自分の腕前を上げることのみである。この強いボスに対するゲームシステムでの救済がない点がSEKIROが高難易度ゲームとされる要因の一つでもある。

 ボスを倒すためには敵の動きやモーションを見て、弾きをするタイミングを覚えるしかない。救済要素を用意せず、プレイヤーの技術の向上を求めることにしたそのレベルデザインは、ひとえに『体幹ゲージと弾きシステムの面白さ』ゆえだろう。何度も繰り返し試行錯誤していく上で敵の動きに慣れていき、ついには敵の攻撃を弾き切って忍殺を決めたその瞬間の快感と面白さが至上のものであることを開発者が疑わなかったからこそなのだ。

 

 一方本作は敵を倒した経験値によりレベルを上げることでステータスを強化できる。また各マップ固有のレベルである『士気ランク』が存在し、これを上げることでそのマップ限定でさらにステータスが強化される。士気ランクはマップ中に存在する軍旗を見つけることで上がっていくため、マップを探索したりその過程で雑魚敵を倒していくことで、ボス戦へ向けてのステータス強化が行える。

 他にも武器や防具にもランクがあってアイテムを消費してステータスを強化できたり、各マップに味方NPCが同行者となり、攻撃しながらも敵のヘイトを買うような動きをしてくれたりと、とにかくシステム面での救済要素が豊富に存在しており、いわゆる高難易度アクションゲームの区分の中でもかなりクリアしやすい部類に入るだろう。

 

 

 本作は高難易度アクションゲームの面白さを味わえながら、救済要素を豊富に用意することでクリアを断念することにはならないような配慮が行き届いており、この手のジャンルのゲームの入門編として優れている作品だと言えるだろう。

*1:敵の攻撃をタイミングよく弾くことで体力とは別に存在する体幹ゲージを削り、すべて削れば敵を倒せるシステム

拡張された戦略性――ファイアーエムブレム エンゲージ

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 近年のFEシリーズは、SRPGというゲームジャンルが抱える取っつきづらさを、恋愛シミュレーション等の別ジャンルのゲームの要素を組み合わせることで解消してきた。従来のFEシリーズが持っていたキャラクターにフォーカスした要素を上手に昇華して、ライトな層にも遊び安いシステムを導入することで新規プレイヤー層を獲得してきたのだ。そんな近年のFEシリーズの集大成ともいえる『風花雪月』が最高傑作であることに異論がある人はそこまで多くはないだろう。

 そんな偉大な前作から満を持して発表された本作だが、しかし初報の時点ではかなり不安な内容だった。

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 主人公のキャラデザはともかくとして、何より一番の懸念点は「歴代のキャラクターたちが登場してくる」点だ。そもそも過去キャラクターを登場させること自体がそれなりにリスクのある行為である上に、FEシリーズとして特に『覚醒』以降顕著であった「新規プレイヤーの獲得」という理念と相反することになるからだ。マルスの持つカリスマ性の八割ぐらいはスマブラに依拠していると言っても過言ではない状況で、良く知らない過去作のキャラが英雄として称えられて活躍する内容に、どの程度の求心力があるだろうか。

 結論を言えば、その点に関しては上手にやったと言える。ゲームクリアした上で考えてみると、歴代キャラを登場させたくて紋章士という設定を作ったのではなく、エンゲージシステムがベースにあった上で紋章士という役割に歴代キャラクターを割り当てたとみるほうが恐らく正しい。本作は風花雪月に唯一足りなかったと言ってもいい「SRPGの戦略性の面白さ」が醍醐味のゲームだ。

三竦みの復活

 「風花雪月」で消えた武器の三竦みのシステムが復活した。だけでなく、相性が有利な武器で攻撃すると敵をブレイクし、反撃を受けなくなるという新要素が追加された。

 一回の戦闘で必ず敵味方一度ずつ攻撃しあうシステムであり、敵一体を倒すのに複数回の攻撃が必要であるFEシリーズにおいて、「敵の反撃を受けない」ことは大きなアドバンテージだった。故に敵の攻撃範囲外から反撃を受けずに殴れる弓や魔法等の長射程武器が強力であったが、今作では近接武器でも相性が有利な武器相手に対してそれらと同等のアドバンテージが得られるようになった。またブレイクは敵からの攻撃に対しても適用されるため、武器相性が不利な相手の前に出すと成すすべもなくやられてしまうリスクも生まれることになる。このシステムによって「どんな状況にも対応できる最強の一体」は存在し得なくなり、キャラクターに明確に役割が生まれることになった。

強力な役割を与えるエンゲージ

 キャラクターに紋章士の指輪を持たせると紋章士とシンクロ状態になる。シンクロ状態のキャラクターは紋章士のスキルが使えるようになる他、シンクロした紋章士とエンゲージできる。エンゲージを行うと、3ターンの間紋章士固有の強力な武器が使え、エンゲージ技と呼ばれる必殺技が使えるようになる。

 シンプルに言い表せば「紋章士の指輪を持たせたキャラクターは強くなる」のだが、

この紋章士のシステムは単純にキャラクターの数値を強くするのではなく(数値も強くするのだが)キャラクターに固有の役割を与える方向性の強さであることがミソになっている。

 たとえば紋章士リンとシンクロしたキャラクターが使える固有スキル「残像」は、自身の周囲にHP1の分身を4体召喚できる。説明には記載されていないが、この分身は敵からのヘイトを優先的に貰うような仕様になっているため、「前に出して孤立した状態から分身がヘイトを貰うことで敵の攻撃を捌く」という使い方ができる。

HPは1だがリンは速さに補正が入るため相手の攻撃より先に反撃できることが多く、回避もそこそこ高いので地味に生き残ってくれる

 他にも地形変化や移動阻害で敵の動きをコントロールできる紋章士カムイ、自身の攻撃範囲内での戦闘ならチェインアタック(追撃)できる紋章士ルキナ、敵から攻撃を受ける際に相性が有利な武器に持ち替えることができる紋章士リーフなど、シンクロスキルとエンゲージ技によって、ただ単純に威力の高い攻撃ができるだけではなく、戦略性という面において唯一無二の強力な役割をキャラクターに付与することができるのだ

 

 武器相性の強化によりキャラクターごとに役割分担がより求められるようになり、紋章士のシステムによりキャラクターに強力な固有の役割を与えられるようになったことにより、SRPGパートにおける戦略性は『風花雪月』よりも大きく拡張された。だがそれ以外の部分については前作に遠く及ばず――特にシナリオはよくある安っぽいJRPGになり下がり――『風花雪月』の完成度から期待される次作の出来には届いていない*1というのが正直なところだ。

 シリーズごとに毛色が変わるのがFEシリーズの特徴であり、だからこそ前作に足りなかったところ、前作で出来なかったところで勝負しようというのは理解できるが、にしてももう少し前作の良さを継承してもよかったんじゃないだろうか。

 最後に好きなキャラの好きなセリフを引用して本作を評させてもらうと、switchで発売されたFEの風花雪月じゃない方――だろう。

*1:前作を超える期待値に届かなかったという意味であり、(シナリオ以外の要素は)及第点程度の出来はある

信仰が生む狂気――名探偵のいけにえ/白井智之

 本作はかつてアメリカで発生した『人民寺院集団自殺事件』という実在する事件をモデルとしている。900人以上の死者が発生した実在する事件をモデルにした時点で既にかなりセンセーショナルだが、それに加えて『特殊設定ミステリ』でかつ『多重解決モノ』と、とことんまでミステリの髄を煮詰めて出来上がった傑作が本作『名探偵のいけにえ』だ。

 あのお祭り騒ぎが、なぜたった一日でこんなことになってしまったのか。

 男は朝からの出来事を振り返ろうとして、すぐにやめた。無数の死体を前に、自分への言い訳を捻り出したところで意味があるとは思えない。もう手遅れだ。男は自分の愚かさを嘆くように顔の右半分を撫で下ろすと、コップに口を付け、喉へジュースを流し込んだ。

        白井智之.名探偵のいけにえ―人民教会殺人事件―(p.13)

 集団自殺が起こったシーンから物語は始まる。ジョーデンタウンにおける信者たちがそれぞれどんな思いで教父に従い毒のジュースを飲むのかと、その果てに訪れる惨たらしい死に様が描写される。何故こんなことになったのか、ここで一体何が起こったのか、この結末を最初に突きつけることで読者の興味を引いている。そしてまさしく『何故こうなったのか』に至るまでの積み重ねこそが、本作の一番の魅力であるともいえる。

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エゴと世界、理不尽と願い――モナーク

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 霧の中の探索パートの謎解きや、プレイヤーに選択を提示する方式など、ゲーム全体を通してプレイヤー自身に考えさせることの多かった内容であったにも関わらず、本作の物語としてのテーマやメッセージはかなりわかりやすく提示されている。それはゲームの最初と最後に入る主人公の語りの通り、『己のエゴを貫け』ということだ。

 

 作中におけるキーキャラクターのエゴは『大切な人間の死を認められない』という内容で共通している。彼らは自分の大切な人が死ななければならないなんて、こんな世界は理不尽だと嘆いているが、果たして本当に理不尽なのは世界なのだろうか?

 「人間が死ぬ理由」の起源としてよく挙げられるのは、旧約聖書におけるアダムとイブの原罪だろう。蛇に唆されたアダムとイブが、知恵の実を食べたことにより神の怒りに触れて、エデンを追放され死の呪いを課されることになる。これをモナークの物語の文脈で解釈するなら、知恵の実を食べたいというアダムとイブのエゴの結果によって与えられた「世界のユガミ」こそが人間の死であると言える。

 つまり大切な人を失ったヒューゴも、弟を事故で失くした捉月の彼も、作られた存在である主人公も、突き詰めれば原因は全て誰かのエゴにある。彼らに限らず作中でエゴを持つ人間たちは、たびたび世界は理不尽であると嘆いているが、真に理不尽を与えているのは世界ではない。彼らの受けた理不尽は誰かのエゴの結果であり、知覚できないそのエゴを『世界』に転嫁しているだけなのだ*1。主人公の最後の台詞にもある通り、世界は空虚であり、それを彩るのは人間のエゴだ。

 

 本作における闘いは、常にだれかとだれかのエゴのぶつかり合いである。『世界を犠牲にしてでも自分のエゴを貫き通すか』という、いわゆるセカイ系の文脈で本作の物語を捉えるのはおそらく間違いで、『自分の願いを叶えたいなら、他の誰かを押しのける必要がある』という徹底した利己主義(egoism)こそが根底にあるテーマだろう。

 世界は人間で溢れている、世界は願いで溢れている、世界はエゴで溢れている。誰かのエゴは、世界にユガミを与える。世界はそれに関知せず、ユガミは誰かに理不尽を与える。エゴこそが人間のアイデンティティであり、それを捨て去ることができないのならば。たとえ世界に(他者に)理不尽を押し付けることになったとしても、己のエゴを貫け。

 個人主義が蔓延る現代だからこそ、利己主義の在り方を肯定する――それこそが本作、モナークの物語だ。

 

 

 

*1:現に「世界のユガミ」という抽象化された原因によって死んだと思われた千代が、実はヨルせいだった(=誰かのエゴが原因だった)という展開が存在している