信仰が生む狂気――名探偵のいけにえ/白井智之

 本作はかつてアメリカで発生した『人民寺院集団自殺事件』という実在する事件をモデルとしている。900人以上の死者が発生した実在する事件をモデルにした時点で既にかなりセンセーショナルだが、それに加えて『特殊設定ミステリ』でかつ『多重解決モノ』と、とことんまでミステリの髄を煮詰めて出来上がった傑作が本作『名探偵のいけにえ』だ。

 あのお祭り騒ぎが、なぜたった一日でこんなことになってしまったのか。

 男は朝からの出来事を振り返ろうとして、すぐにやめた。無数の死体を前に、自分への言い訳を捻り出したところで意味があるとは思えない。もう手遅れだ。男は自分の愚かさを嘆くように顔の右半分を撫で下ろすと、コップに口を付け、喉へジュースを流し込んだ。

        白井智之.名探偵のいけにえ―人民教会殺人事件―(p.13)

 集団自殺が起こったシーンから物語は始まる。ジョーデンタウンにおける信者たちがそれぞれどんな思いで教父に従い毒のジュースを飲むのかと、その果てに訪れる惨たらしい死に様が描写される。何故こんなことになったのか、ここで一体何が起こったのか、この結末を最初に突きつけることで読者の興味を引いている。そしてまさしく『何故こうなったのか』に至るまでの積み重ねこそが、本作の一番の魅力であるともいえる。

 

 本作はトリックや特殊設定が特別優れているというわけではない。特殊設定部分は正直に言えばかなり無理がある*1し、この特殊設定自体は謎になっておらず明示的な内容として物語序盤で明かされるため、特殊設定に関わる内容がトリックの勘所になることも容易に想像がついてしまうからだ。

「さあ答えてくれ。奇蹟はあるのか、ないのか。皆が答えを待ってるぜ」

           白井智之.名探偵のいけにえ―人民教会殺人事件―(p.367)

 解決編において、探偵役である大槻は信者たちの前で二つの推理を語る。特殊設定が存在する前提である『信仰者の推理』と、特殊設定が存在しない前提の『余所者の推理』。真実は一つしか存在しえないが、しかし見えている世界の違いによって異なる二つの推理が成り立ってしまう。そしてどちらの世界が"本当に"正しいかは証明することなどできない。

 しかし教団の信者ではない大槻には『余所者の推理』が正しいことはわかっている、それでもなお『信仰者の推理』を提示したのは何故だろうか。それは調査団のメンバーの『相手の信仰を否定しない』というスタンスに同調したからでも、あるいは助手のりり子から何度も注意された『探偵の加害性』に配慮したからでもなく、ことジョーデンタウンにおいて、すべての真実は教父であるジム・ジョーデンによって決定されることになるからだ。

 あの場において大槻が語った『信仰者の推理』と『余所者の推理』のどちらが正しいかを証明することは、実は難しいことではない。二つの推理では野蒜の死体の状態が異なるため、霊園にある野蒜の死体を確認すれば、信仰者の推理が誤りであることは簡単に証明できるのだ。しかし大槻は証明をしない。二つの推理を提示したうえで、ジム・ジョーデンに迫る。奇跡はあるのか、ないのかと。

 

 偽りの推理を真実とすることを是とした二人の思惑。互いの信仰を守るための暗黙の合意であり、信仰のために現実を歪める狂気そのものである。物語の冒頭に起こった凄惨な集団自殺が、どのような信仰と狂気の積み重ねで出来上がったか知ったとき、思わず震えることになる。ミステリの世界に蔓延る『名探偵』を信仰と断じ、かつて実在したカルト信仰と重ね合わせるその切り口は、実にセンセーショナルと言わざるを得ないだろう。

 

 

 

*1:特殊設定ミステリが成り立つ前提である『特殊設定は論理的な要素である』ことが破綻しているため