エゴと世界、理不尽と願い――モナーク

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 霧の中の探索パートの謎解きや、プレイヤーに選択を提示する方式など、ゲーム全体を通してプレイヤー自身に考えさせることの多かった内容であったにも関わらず、本作の物語としてのテーマやメッセージはかなりわかりやすく提示されている。それはゲームの最初と最後に入る主人公の語りの通り、『己のエゴを貫け』ということだ。

 

 作中におけるキーキャラクターのエゴは『大切な人間の死を認められない』という内容で共通している。彼らは自分の大切な人が死ななければならないなんて、こんな世界は理不尽だと嘆いているが、果たして本当に理不尽なのは世界なのだろうか?

 「人間が死ぬ理由」の起源としてよく挙げられるのは、旧約聖書におけるアダムとイブの原罪だろう。蛇に唆されたアダムとイブが、知恵の実を食べたことにより神の怒りに触れて、エデンを追放され死の呪いを課されることになる。これをモナークの物語の文脈で解釈するなら、知恵の実を食べたいというアダムとイブのエゴの結果によって与えられた「世界のユガミ」こそが人間の死であると言える。

 つまり大切な人を失ったヒューゴも、弟を事故で失くした捉月の彼も、作られた存在である主人公も、突き詰めれば原因は全て誰かのエゴにある。彼らに限らず作中でエゴを持つ人間たちは、たびたび世界は理不尽であると嘆いているが、真に理不尽を与えているのは世界ではない。彼らの受けた理不尽は誰かのエゴの結果であり、知覚できないそのエゴを『世界』に転嫁しているだけなのだ*1。主人公の最後の台詞にもある通り、世界は空虚であり、それを彩るのは人間のエゴだ。

 

 本作における闘いは、常にだれかとだれかのエゴのぶつかり合いである。『世界を犠牲にしてでも自分のエゴを貫き通すか』という、いわゆるセカイ系の文脈で本作の物語を捉えるのはおそらく間違いで、『自分の願いを叶えたいなら、他の誰かを押しのける必要がある』という徹底した利己主義(egoism)こそが根底にあるテーマだろう。

 世界は人間で溢れている、世界は願いで溢れている、世界はエゴで溢れている。誰かのエゴは、世界にユガミを与える。世界はそれに関知せず、ユガミは誰かに理不尽を与える。エゴこそが人間のアイデンティティであり、それを捨て去ることができないのならば。たとえ世界に(他者に)理不尽を押し付けることになったとしても、己のエゴを貫け。

 個人主義が蔓延る現代だからこそ、利己主義の在り方を肯定する――それこそが本作、モナークの物語だ。

 

 

 

*1:現に「世界のユガミ」という抽象化された原因によって死んだと思われた千代が、実はヨルせいだった(=誰かのエゴが原因だった)という展開が存在している